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患者トラブル・医療事故

悪質クレームと応招義務の限界 ― 医師法19条・2019年通知で診療を断れる場合、居座り・暴言への対応、カスハラ対策

「診療内容と関係のない要求で毎日電話が来る」「受付で1時間以上怒鳴り続ける患者がいて、職員が出勤を嫌がっている」。悪質なクレームで医療機関が最も迷うのは、応招義務がある以上どこまで我慢しなければならないのか、という点です。この記事では、医師法19条の応招義務と診療を断れる場合を整理した2019年12月の厚生労働省通知、居座り・暴言への現場対応と警察相談、弁護士名義の通知、2026年10月に義務化されたカスタマーハラスメント対策までを、条文と公的資料に基づいて整理します。

この記事の結論

応招義務があっても、診療内容と関係のないクレームを繰り返すなど診療の基礎となる信頼関係が失われた患者については、緊急対応が不要である限り、新たな診療を行わないことは正当化されます。根拠は医師法19条1項の「正当な事由」を整理した厚生労働省医政局長通知(令和元年12月25日医政発1225第4号)で、判断は「緊急対応の要否」「診療時間内か否か」「信頼関係」の3要素で行います。

応招義務とは ― 医師法19条と2019年通知による整理

医師法19条1項は「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定めています。これがいわゆる応招義務です。条文には何が「正当な事由」に当たるかが書かれていないため、現場では「どんな患者でも断れない」という理解が広がっていました。

この状況を整理したのが、厚生労働省医政局長通知「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」(令和元年12月25日医政発1225第4号)です。通知は過去の行政解釈との関係について「今後は、基本的に本通知が妥当する」としており、現在の解釈はこの通知が基準です。基本的な考え方は次の3点です。

  • 応招義務は医師個人が国に対して負う公法上の義務であり、医師の患者に対する私法上の義務ではないこと。勤務医であっても義務を負うのは個人としての医師です。
  • 他方、医療機関としても、正当な理由なく診療を拒んではならないこと。
  • 労使協定・労働契約の範囲を超えた診療指示は労働関係法令上の問題であり、応招義務の問題ではないこと。

もっとも、不当に診療を拒めば民事上の責任や医師法7条の行政処分の問題になり得ます。重要なのは、通知の判断枠組みに沿って、断る判断を記録とともに組織として行うことです。

ポイント

応招義務の現在の解釈基準は令和元年12月25日の厚生労働省通知です。医師個人の公法上の義務と医療機関の責務を分けたうえで、どのような場合に診療しないことが正当化されるかを具体的に示しています。

診療を断れる「正当な事由」の判断基準 ― 緊急性・診療時間・信頼関係

通知は、診療の求めに応じないことが正当化されるかどうかの最も重要な考慮要素を患者について緊急対応が必要であるか否か(病状の深刻度)とし、これに診療時間内・勤務時間内かどうかと患者と医療機関・医師との信頼関係を加えた3要素で整理しています。

区分診療時間内・勤務時間内診療時間外・勤務時間外
緊急対応が必要(病状の深刻な救急患者等)専門性・診察能力、設備状況、他の医療機関による医療提供の可能性を総合的に勘案し、事実上診療が不可能といえる場合にのみ、診療しないことが正当化される応急的に必要な処置をとることが望ましいが、原則として公法上・私法上の責任を問われない。必要な処置のうえで救急対応可能な病院に依頼するのが望ましい
緊急対応が不要(病状の安定している患者等)原則として必要な医療を提供する必要がある。ただし、専門性・設備・医療の代替可能性のほか、患者との信頼関係等も考慮して、緊急時より緩やかに解釈される即座に対応する必要はなく、診療しないことは正当化される。時間内の受診依頼や他の医療機関の紹介等が望ましい

そのうえで通知は個別事例として5類型を挙げています。悪質クレームとの関係で重要なのは①と②です。

  • ①患者の迷惑行為:迷惑行為の態様に照らし、診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合には、新たな診療を行わないことが正当化されます。例として「診療内容そのものと関係ないクレーム等を繰り返し続ける等」が挙げられています。
  • ②医療費不払い:以前の不払いのみを理由に診療しないことは正当化されませんが、支払能力があるのに悪意をもってあえて支払わない場合等には正当化されます。
  • ③退院・転院、④差別的な取扱い、⑤外国人患者:医学的に入院継続が不要なら退院させることは正当化される一方、年齢・性別・国籍・宗教や文化・言語の違いのみを理由に診療しないことは正当化されません。

注意すべきは、これらに当たる場合でも緊急対応が必要な場合には表の上段の整理に戻ると通知が明記している点です。迷惑行為を繰り返してきた患者でも、緊急対応が必要な状態で来院すれば、事実上診療が不可能といえる場合を除き拒めません。「今後一切診ない」という通告は、緊急時の例外を織り込んで行う必要があります。

正当なクレームと悪質クレームの線引き ― 医療機関版の判断表

「信頼関係の喪失」を判断するには、そのクレームが正当な申入れか不当な要求かを見極める必要があります。参考になるのが、2026年10月1日施行の改正労働施策総合推進法に基づくカスタマーハラスメント防止指針(令和8年厚生労働省告示第51号)です。指針は、言動が「社会通念上許容される範囲を超えた」かどうかを言動の内容と手段や態様に着目して判断し、一方のみが範囲を超える場合でも該当し得るとしています。他方、社会通念上許容される範囲の苦情は「正当な申入れ」でありカスハラに当たらないとも明記しています。指針の「顧客等」には病院などの施設の利用者とその家族が含まれ、医療機関にそのまま当てはまります。

観点正当な申入れ(誠実に対応する)不当な要求・迷惑行為(応じない・打ち切る)
要求の内容説明不足への再説明の要求、待ち時間や接遇への改善要望、診療内容への疑問、事務ミスの是正診療と無関係な要求、特定の医師の処分や謝罪文の強要、根拠のない金銭要求、保険適用外の扱いの強要
手段・態様口調が強くても事実の指摘が中心で、対話が成り立つ暴行、物を投げる、脅迫、人格を否定する暴言、土下座の強要、無断撮影、SNSに晒すとほのめかす
頻度・時間必要な範囲の問い合わせと再質問同じ質問の執拗な繰り返し、同内容の電話・メールの連投、長時間の居座りや電話での拘束
相手担当部署・責任者に対する申入れ特定の職員個人への執拗な接触、職員の個人SNSや自宅への接触
診療との関係自分の病状・治療方針に関する相談通知のいう「診療内容そのものと関係ないクレーム等を繰り返し続ける」状態

医療機関特有の難しさは、患者側に不安や病状由来の事情があり、言動が激しくても正当な申入れの部分を含むことが多い点です。実務では、要求の中の正当な部分には誠実に対応し、不当な手段・態様の部分には応じないという切り分けを、院長・事務長の判断として現場に示すことが出発点です。認知症や精神疾患による言動が疑われる場合は医学的な評価を先に行い、クレーム対応の枠組みとは分けて扱います。

長時間の抗議・暴言・居座りへの現場対応と警察相談

線引きができても、現場で職員が一人で対応していては意味がありません。次の手順を院内ルールとして文書化しておくことをお勧めします。

対応の基本手順

  • 複数名で対応し、場所を移す:待合室での大声は他の患者の診療環境を害します。相談室など離れた場所に案内し、必ず2名以上で対応します。
  • 対応時間を区切る:「ご説明は以上です。業務に支障が出ますのでお引き取りください」と明確に告げ、時刻を記録します。退去を求めたのに居座る行為は刑法130条の不退去罪(3年以下の拘禁刑または10万円以下の罰金)に当たり得ます。
  • 記録と録音:日時、発言内容、対応者、要した時間を時系列で記録します。電話の録音と防犯カメラは、録音・録画している旨を院内掲示や自動音声で事前に告知しておくと後のトラブルを避けられます。
  • 窓口の一本化:以後の連絡は事務長など責任者が書面で受けることを伝え、個々の職員に電話をつながせない運用にします。

警察に相談・通報する基準

暴行(刑法208条)、傷害(204条)、脅迫(222条)、威力業務妨害(234条)、不退去(130条)に当たる行為があれば、その場で110番通報することをためらう必要はありません。通報基準(たとえば「退去要請後も居座る」「職員に手を上げる」「物を壊す」)を文書で決め、現場責任者が院長の判断を待たずに通報できるようにしておきます。継続的な迷惑行為は、所轄警察署の相談窓口に事前に経緯を伝えておくと通報時の対応が円滑です。

ポイント

現場対応は「複数名・場所を移す・時間を区切る・記録する・窓口を一本化する」の5点です。通報基準を文書で決めておけば、職員は迷わず動けます。

診療関係の終了と弁護士名義の通知 ― 書面の中身とタイミング

院内での対応を尽くしても迷惑行為が続く場合、「診療の基礎となる信頼関係が失われたため、今後は新たな診療を行わない」ことを書面で通知する段階に進みます。通知①の要件を満たす事実を整理したうえで行うものです。

通知書に記載する事項

  • これまでの経緯(日時・行為の概要)と、院内で行った説明・注意の事実
  • 診療の基礎となる信頼関係が失われたと判断したこと、今後は当院での新たな診療を行わないこと
  • 緊急対応が必要な場合はこの限りではないこと(応招義務の整理との整合)
  • 継続的な治療が必要な場合の他の医療機関への紹介と、診療情報提供書を作成する用意があること
  • 今後の連絡窓口(弁護士名義なら弁護士)と、迷惑行為が続く場合は刑事告訴・損害賠償請求を検討すること

通知の時期は、①最終的な説明を終えた後も同じ要求が続く、②手段・態様が刑法に触れる領域に入った、③職員個人への接触やSNS投稿が始まった、のいずれかが目安です。弁護士名義にすると法的手段の準備が整っていることが伝わり、職員が矢面に立たずに済みます。通知書は相手がSNSに公開する前提で冷静な文面にし、内容証明郵便で送ります。通知後に患者が「診療拒否だ」と行政に申し立てても、迷惑行為の日時・内容、説明の経緯、信頼関係が失われたと判断した理由を時系列で示せれば、正当な事由の立証は可能です。

職員を守るカスハラ対策 ― 2026年10月義務化で整える体制

2026年10月1日から、改正労働施策総合推進法により、すべての事業主にカスタマーハラスメント対策の雇用管理上の措置が義務づけられました。指針が求める措置は、方針の明確化と周知・啓発、相談体制の整備、事後の迅速かつ適切な対応、相談者のプライバシー保護と不利益取扱いの禁止です。

医療機関にとって重要なのは、指針が「各業法等によりサービス提供の義務等が定められている場合やサービスが途絶すると顧客等の生命や心身の健康に重大な影響が及ぶ場合等があることに留意して適切に対応する必要がある」と述べている点です。これは応招義務を念頭に置いた記述であり、カスハラ対策と応招義務は対立するものではなく、両立させて設計することが求められています。具体的には次の整備が考えられます。

  • 「患者・家族からの暴言・暴力・不当要求には組織として毅然と対応し、職員を守る」方針を院長名で明文化し、院内掲示と職員研修で周知する。
  • 相談窓口を事務長や医療安全管理者に置き、相談した職員が不利益を受けないことを明記する。
  • 前章までの対応手順(複数名対応・時間制限・記録・通報基準・診療関係終了の判断手順)をマニュアルにまとめ、緊急時は診療するという応招義務の整理も同じ文書に書く。
  • 被害を受けた職員への配慮(担当から外す、面談)を事後対応として定め、SNS上の職員への攻撃も指針上のカスハラに含まれるため、記録の保存と削除請求を医療機関が支援する。

医療機関のクレーム対応では、応招義務・個人情報保護・医療安全・労務管理が同時に絡みます。当事務所には医師免許と弁護士資格を併せ持つ弁護士が在籍しており、医学的な事情を踏まえてクレームの正当部分と不当部分を切り分け、通知書の作成からカスハラ対策の規程整備まで、チャット・オンラインで全国の医療機関に対応しています。

よくある質問(FAQ)

応招義務があるクリニックでも、迷惑行為を繰り返す患者の診療を断れますか。
断れます。令和元年12月25日の厚生労働省通知は、診療内容と関係のないクレームを繰り返し続けるなど、診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合には、新たな診療を行わないことが正当化されるとしています。ただし緊急対応が必要な場合は別であり、通知書にもその旨を明記しておく必要があります。
「今後一切診療しない」と口頭で伝えてもよいですか。
口頭だけで済ませるのはお勧めしません。後に「診療拒否された」と主張されたとき、信頼関係が失われた経緯と判断の根拠を示せなければ不利になります。経緯を整理した書面で通知し、緊急時の例外と他の医療機関の紹介に言及しておくことが、医療機関を守ることにつながります。
患者が受付で大声を出し続けています。警察を呼んでもよいですか。
退去を求めても居座る行為は刑法130条の不退去罪、大声で業務を止める行為は威力業務妨害罪(234条)に当たり得ます。他の患者の診療環境を守る責任もありますので、通報基準をあらかじめ決め、現場責任者の判断で110番通報できる体制にしておくことをお勧めします。
カスハラ対策の義務化は、小規模なクリニックにも適用されますか。
適用されます。2026年10月1日施行の改正労働施策総合推進法に基づく措置義務は、事業規模を問わずすべての事業主が対象です。方針の明確化と周知、相談窓口の設置、事後対応の手順、相談者の保護の4点を、クリニックの規模に合わせた簡潔な文書で整えてください。
悪質なクレームの患者から「カルテを開示しろ」と言われました。応じる必要がありますか。
診療録は個人情報保護法上の保有個人データに当たるため、本人からの開示請求には法定の例外事由がない限り応じる義務があります(同法33条)。クレームの悪質さは開示を拒む理由になりません。開示請求には淡々と応じたうえで、迷惑行為には別途対応するのが適切です。

まとめ

  • 応招義務(医師法19条1項)の現在の解釈基準は令和元年12月25日の厚生労働省通知で、判断要素は「緊急対応の要否」「診療時間内か否か」「信頼関係」の3つ。
  • 診療内容と関係のないクレームを繰り返すなど信頼関係が失われた患者には、緊急時を除き、新たな診療を行わないことが正当化される。
  • 線引きは「要求の内容」と「手段・態様」の2軸で行い、正当な部分には誠実に対応し、不当な部分には応じない。
  • 現場対応は複数名・場所を移す・時間を区切る・記録する・窓口を一本化する。通報基準を文書化し、不退去・威力業務妨害等は110番通報をためらわない。
  • 診療関係の終了は経緯を整理した書面(弁護士名義も可)で通知し、2026年10月義務化のカスハラ対策と応招義務を両立する体制を整える。

悪質クレームへの対応は、応招義務の解釈を誤ると医療機関側が不利になり、我慢しすぎると職員を失います。当事務所の顧問弁護士サービスでは、クレーム対応基準と通知書の整備、カスハラ対策規程の作成、個別案件での通知書の作成までを継続的に支援しています。「この患者を断ってよいのか」と迷う段階でも、お問い合わせ(無料相談)からお気軽にご相談ください。

参考(一次情報)
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この記事の執筆者
弁護士・医師 澄川 淳矢弁護士法人 越水法律事務所 弁護士・医師(第一東京弁護士会)

京都大学医学部卒業、倉敷中央病院での初期研修を修了した医師であり、弁護士。医療現場での経験を背景に、病院・クリニック・介護事業者・医薬品・医療機器・ヘルステック企業の法務について、医療の実態を踏まえた実践的な助言を行う。

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越水 遥
この記事の監修者
代表弁護士 越水 遥弁護士法人 越水法律事務所 代表弁護士(第一東京弁護士会)

大手法律事務所を経て越水法律事務所を設立。企業法務全般、M&A、ファイナンス、スタートアップ支援を手がけ、東証グロース上場企業の社外取締役も務める。医療機関・ヘルスケア企業の顧問として、経営の視点を踏まえた法務支援を行う。

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※ 本記事は一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言・医学的助言ではありません。法令・制度・通知の内容は公開日時点のものです。具体的なご対応にあたっては、最新の法令・通知をご確認のうえ、弁護士にご相談ください。

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